セリフを立てる

少し前に、はてな匿名ダイアリーで、こんな文章を書いた。

anond.hatelabo.jp

映像作品を見ていてたまに気になっていたことを書いてみたのだけど、トラックバックはてなブックマークで、「それ私も気になってた」という人がそれなりにいて、ちょっと嬉しかった。

また、制作の都合上、声の収録が順番通りになるとは限らないそうで、セリフの意味合いを必ずしも完全に理解してからできるわけではない、という指摘もあって参考になった。

「セリフを立てる」

上記の文章を書いた時には知らなかったんだけど、さっきもう一度調べてみたところ、声優さんや俳優さんの用語では「セリフを立てる」というらしいことがわかった。

検索するといくつかのサイトが見つかった。特に詳しく載っていたのが、俳優さんと思われる方が書かれている「エンギのかがく」というブログ。セリフを立てることについての記事もいくつかあって、「立てる」の意味については以下のように説明されていた。

文章の意味を正しく伝えるために、高低・強弱・間などを使ってセリフの一部分を強調する。

これを「立てる」と言います。

セリフ編、その2 | エンギのかがく

同じ記事で、この方が見かけたという、時代劇での間違い事例も面白い。「犯人は同じ人間かもしれない」の「人間」を立ててしまっていたという。続きの記事ではなぜそのようなことが起きたかも考察されていて興味深かった。

また、プロ声優の濱崎泰人さんが書かれているブログ「ちゃぼログ!」も参考になった。専門学校や養成所を出たばかりの人がセリフを読もうとした時の反応として、次のように記されていた。

これまでのレッスンで習った「立てる所」「滑舌」「発声」「語尾をしっかり落とす」「距離感」「誰に話しているのか」など、「読むためのスイッチ」が入ってしまい、それに従って読んでしまいます。 セリフを「読む」ことから脱却する-「言う」意識育成法 | ちゃぼログ!

ということは、専門学校や養成所でのレッスンでは、セリフを立てることを教わるようだ。すべての声優さんが専門学校・養成所の出身というわけではないそうだけど、レッスンで教えているくらいだから、出身に関わらず声優の基本的なスキルのひとつなのは間違いなさそうだ。

『花もて語れ』

はてなブックマークでのコメントで、id:worris さんが紹介してくださったのが、『花もて語れ』という漫画。

1 巻冒頭を試し読みしたら「おっ」と思うところがあって、結局 Kindle で全巻一気読みしてしまった。

花もて語れ(1) (ビッグコミックススペシャル)

花もて語れ(1) (ビッグコミックススペシャル)

プロゴルファー猿』がゴルフマンガ、『クロス・マネジ』がラクロスマンガ、『少年ラケット』が卓球マンガだとすると、この『花もて語れ』は、朗読マンガということになる。

朗読と言われると、ラジオとかでアナウンサーや俳優の人がいわば副業として小説や随筆を読む、というイメージがあったけど、朗読そのものをひとつのジャンルとして楽しんでいる人たちがいるらしい。本作の主人公であるハナも、たまたま見つけた朗読教室で先生と仲間を見つけ、どうすれば聴く人の心に届くような朗読ができるのかを究めていく。

『花もて語れ』は朗読マンガなので、登場人物を通して朗読そのものの奥深さも描いてくれるんだけど、マンガで声そのものを表現するには限りがある。その分、力を入れて描かれているのが、朗読対象の文学作品をどう解釈するか、ということ。

僕が最初に驚かされたのは、1 巻で宮沢賢治の詩『やまなし』を朗読するシーン。冒頭すぐに、こういう部分がある。

 二(ひき)(かに)の子供らが青じろい水の底で話していました。
クラムボンはわらったよ。』
クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
クラムボン()ねてわらったよ。』
クラムボンはかぷかぷわらったよ。』

ぱっと見、4 つあるセリフはどれを誰が言ってるのかさっぱりわからないんだけど、主人公のハナは、残りの文章に兄弟と書かれていることと、この 4 行のセリフの内容から、「1 つ目と 3 つ目は兄のカニで人間で言えば 4〜5 歳くらい、残る 2 つ目と 4 つ目は弟のカニで人間で言えば 2〜3 歳くらい」だということを読み取って、セリフごとに読み方を変えていく。朗読をちゃんとやろうとすると、作品をすべて咀嚼して、誰がどんな視点からどんな気持ちで言っているのかを、セリフも地の文も含めて特定しなければならないのだ。

本作では、その作業の結果もまたマンガで表現するという形で、読者に伝えてくる。『やまなし』朗読のシーンでも、マンガのタッチで描かれた『花もて語れ』登場人物たちの後ろに、絵本のようなタッチで『やまなし』の世界が描かれていて、あたかも本当に朗読を聞いているかのように作品の外と中の世界を一度に味わうことができる。朗読対象の作品ごとに作品世界の画風も変えて描かれているので、次に朗読される作品はどんな風になるだろうと楽しみになってくる。

もちろん、文学作品のことだから、ハナの解釈が唯一絶対というわけではない。けれども、僕が全巻読み終えてから YouTube で朗読動画を漁った時、『やまなし』朗読の動画の中にも、2 匹のカニの会話として読んでいる動画と、それすらしていなくて 4 行分のセリフすべてを同じ口調でさらっと読み上げている動画があったように思う。作品を咀嚼したかしていないかの差なのかもしれない。でも、『花もて語れ』を読む前の僕だったら、その差に気づきもしなかっただろう。そう考えると、僕が実際の朗読を聴くときの「姿勢」が変化しているわけで、それだけでも本作を読んだ甲斐があったというものだ。

『コップのうた』

完全に余談になるけど、僕が『花もて語れ』1 巻を試し読みした時に「おっ」と思ったのは、自分が小学 3 年生のときの記憶が蘇ってきたからだ。

川越から八王子に転校した直後の 4 月、国語の教科書には、最初の 2 ページに短い詩が載っていた。先生が授業中に僕を当てて読ませたんだけど、僕はその詩を感情たっぷりに読んだ。朗読だなんて言えるほど作品の内容を検討したわけではなかったけど、「コップ/お水をつぎますよ/いいですか」という、コップに話しかける体裁の詩を、できるだけ丁寧に読んだつもりだった。

小学生が教科書を読むときなんて、大体は棒読みで読むわけで、なんなら「変な転校生だな。いじめてやれ」という流れになってもおかしくなかった気がする。幸いそうはならなかったけど、読み上げた後、教室全体がなんかドン引きしたような気配は感じたので、以後は棒読み派に転向したのだった。

最初の「コップ/お水をつぎますよ/いいですか」という部分だけ覚えていたんだけど、検索してみたところ、真田亀久代さんという詩人の作品だったらしい。『まいごのひと―真田亀久代詩集』という詩集に収録されており、この詩集は 1993 年に第 11 回新美南吉児童文学賞を受賞している。作者の真田さんは 1910 年生まれで、2006 年に亡くなっている。

まいごのひと―真田亀久代詩集 (創作文学シリーズ 詩歌)

まいごのひと―真田亀久代詩集 (創作文学シリーズ 詩歌)